忘れたくない

穴埋

 初めて人を刺した。つまり、殺した。
 審神者なんてものを十年も続けているのに、初めて殺した相手は遡行軍でもなんでもない、ただの一般女性だった。実の母親だった。
「理由とか、聞かないの」
 真っ黒な背中に話しかけてみる。死体を背負って山を登った背中は血だらけのはずなのに、月のない夜は、均等に全てを闇に沈める。休むことなく穴を掘り続けていた背中が動きを止めて、うーん、と呟く。私の問いに答えようとしてくれているらしかった。のっぺりとした黒い背中は、地面に置かれた死体と全く同じに見えた。
「必要ないからね」
 ざく、とまたシャベルが地面に突き刺され、穴を深くする。野犬が臭いを嗅ぎつけるから、ある程度の深さが必要らしい。本丸の庭から遠くに見えるだけだったこの山に、果たして野犬などいるのだろうか。聞こうとして、犬耳をつけた二振りを思い出して、やめた。季語を探すと言っては散歩に出掛けているのを知っていた。野犬と同じに扱うわけではないけれど、あの二振りが散歩のお土産と言って落ち葉や花を持ってきてくれる度に、私は冷や汗をかくのだろうか。
 罪悪感はない。ただ、なにかが怖い。
 手のひらに、肉を刺した感覚が残っている。力んでいた肩から手指にかけてが、いまだに痺れて震えている。引き抜く時のほうが感覚はずっと鮮明で、それはたぶん、正気に戻ったからだった。血に塗れた銀色を見つめながら、次は誰を殺さなければならないのかと考えていた。
 結局、私はひとりしか殺していない。
「よし」
 一言呟いた男は、穴からやっと出てきた。きっと泥だらけだろう姿を照らす光はやはりなく、彼の目に、私はどう写っているのだろうか。それなりに血に塗れた姿もまた、死体とほとんど同じだろうか。
 やたらと丁寧に死体を穴に入れた男は、その上に掘り出した土ではなく、別の何かをまぶしている。「なに、それ」と聞くと、なんだかよく分からない説明が延々と続いた。要約すると、有機物の分解を促進するためのものだそうだ。どうしてそんなものが、と思うけれど、本来は畑のために使う肥料か何かなのだろう。もしかすると、この作業は男にとって、畑を耕すのとあまり変わらないのかもしれない。
 男が肥料を全てまぶし、掘り出した土を戻し終えるのを、私はただ見つめていた。穴を掘る段から共にする気でいたけれど、「主は座ってて」「僕だけの方が効率が良いからね」と重ねられ、果てにはそもそもシャベルが一つしかないことに気が付いたので、本当にただ見つめていることしかできなかった。穴が掘られたあとだと言われても分からないような地面を見て、私がいる意味はあっただろうかと思い、すぐにそれを恥じた。
「帰ろうか」
 肥料が入っていた袋とプラスチックのケース、シャベルで両手を塞がれた男が言う。血を纏った銀色を思い出す。あの銀色が、ずっと頭の奥できらめいている。私はまた、なにかを埋めにくるのだろうか。
「私のことは、埋めなくてよかったの」
 のっぺりとした影のまま、男が首を傾げる。その頭のなかにも、きらめく銀色がある。今日よりもずっと、ずっと前から。
「埋めないよ」
 男は、刀の付喪神である。