忘れたくない

微睡み

 一見すると冷たい印象を抱く漆黒は、案外と居心地が良い。決して熱くはないが、然程冷たくもなく。突き放すでも纏わりつくでもないそれは、両面宿儺の名を冠する呪いを静かに夜の水底に引き留める。

 数奇なる命運の果て、彼の呪いの王はとある男のいち式神としてその腰を落ち着けた。一体如何なる企みがあってのことか、はたまたひと時の気紛れかと忌避されるその影で、ひとりとひとつが実に穏やかな逢瀬を重ねていたことを知る者は数少ない。
 それは時に、山を飾る雲が薄れゆく曙に。
 それは時に、蛍が舞い踊る月の宵に。
 それは時に、雁が寝床へと連なる夕暮れに。
 それは時に、火桶の火が雪の如く白く灰がかる昼なかに。
 かつての凄惨たる爭いから遠ざかるほどに彼らは近くなり、ただ静かに、光の下に影があった。
 しかし、その式神は災いとして恐れられた紛う事なき呪いである。完全に男の支配下にあるとは到底言えず、自由気ままに現し世に顕れることはしばしばあった。徐に影を割り裂く、白くはためく二口の袖は見る者を恐怖の底へと誘ったが、男は縛りの存在を理由に好きなようにさせていた。諦めた、と言う方が的確かもしれない。呪いは、男以外は視界にも入れていなかった。

 静寂に揺り起こされた先で待つ、夜を満たす水に慣れたのは何時の頃だったか。久方振りに深い瞑想から浮上した意識で、両面宿儺は潜思する。
 肋骨の天蓋の軋み。踵を浸す水面の匂い。骨の山の座り心地。
 顧みれば懐かしさすら感じるそれらは、しかし一切の手触りがなく、故に答えはとんと出ない。時の感覚など、闇を住処にするより疾うの昔に捨て去っていた。
 無いと分かっているものを求めることに意味はない。早々に、今度は自ずから意識を浮上させた宿儺であったが、その脳裏にふいに影が射した。
 己を従える男は、この詮ない問いに如何なる答えを寄越すだろうか。
 答えの代わりに求めたものが帯びる丸みに、宿儺はついと吐息を漏らしてしまった。己の坐する頂こそが、欠けることのない望月であった宿儺の世界は、今や新月の夜の海の底。月明かりの最後の一筋を隠したのは、今し方射した影に違いないだろう。成程通りで、玉座の居心地など思い出せないはずだ。
 ひとりでに頷いた宿儺は、すいと漆の爪を空に翳す。今となっては先の問い掛けも野暮というもの、しかし男の纏う冷えた香りが欲しくなった。この水底に匂いはない。色も、音も、味も、物も、何一つとしてない。そんな海の水面から顔を出して最初に知るのが、その冷たい冬の香りだった。桜散る木陰でその香りに包まれた時には何とも奇怪な心地がしたが、不快ではなかった。
 さて今の現し世の時季は何れか、と考えるでもなく思ったところで、宿儺は首を傾げる。常であれば、闇を一筋切り込むと同時に爪先が水面に沈むというのに、此度はしんしんと夜を満たす水が形を変えることなく佇むのみ。もう一度、と指を滑らせるも変わらないそれに、宿儺は答えを得た。感慨はない。無いと分かっているものを求めることに、意味はない。
「人の子の命は短いな」
 呟いた言葉は星になることもなく、そのまま夜に溶けていった。
 術者が死ねば、影に隠したものは閉じ込められる。予想していなかったわけではないが、やはりこの術式は面白い。男を気に入る所以となったものが最後まで健在であったことに満足し、宿儺は乾いた笑みを一つ溢す。
 己が呼び出されなかったということは、寿命か、病気か、事故か。はたまた、印を結ぶ暇もなく殺されたか。何にしろ、この両面宿儺を半永久的に封印したという名誉を得たのだ、これ以上の誉れもあるまい。
 繰り返し浮かべては沈めていた思考を今度こそ手放した宿儺は、組んでいた足を解いてごろりと寝そべる。
 呪物と成り果てた呪いは、永久を過ごすのに随分と慣れていた。それは到底、快とは言えぬ心地のものであったが、次に月の下で、あの烈々たる魂と相見える時を思えば、悪くないものだと感じられた。
 百年後か、千年後か。この手を引き寄せるべく、己が呪いの名を呼ばう声を想い、宿儺は肆の眼を静かに閉ざした。