ホームルームを終えた後、クラスメイトとの談笑もそこそこに、双子の弟・宿儺を教室まで迎えに行き、スーパーに寄ったり寄らなかったりしつつ、共に帰る。それが悠仁の放課後のルーティーンである。小学生の頃から続くそれは、今年度から新しく高校に進学しても、変わることはなかった。
今日も今日とて、衣替えしたばかりの白い半袖シャツから伸ばした腕で、宿儺のクラスの扉をガラリと開ける。「宿儺、帰ろ〜」とかけようとした声はしかし、真反対の、教室の後ろの扉から聞こえた「虎杖宿儺くん、いる?」という声に先を越され、形となることは無かった。
ゴクリ。口の中で死んでしまった言葉を噛み砕き、飲み込む。その間に分かったのは、学校一の美人と称される三年生の女子生徒が宿儺を呼び出したことと、その目的が十中八九、告白であろうということ。そして、教室にいる誰もが、この二つの事実を寸分違わず把握しているだろうということだ。
遂に、虎杖弟に告白をする猛者が現れた。
そんな空気で満たされた教室は「あんな美人と付き合えるなんて羨ましい」「ズリィ」という男子と、「私も虎杖くん狙ってたのに」「先越された」という女子とで、静かに、しかし確実に騒めいていた。
これには流石の悠仁も驚きである。悔しいことに宿儺が女子にモテるのは今に始まったことではないのだが、これまでは皆、遠巻きに眺めてはアレやコレやと言い合う、まさに檻の中の猛獣に対するかのような接し方をしていたのだ。それこそファンクラブなんてものがヒッソリと作られるくらいには、虎杖宿儺は“観賞用”であった。それがここにきて、その檻の中に足を踏み入れるような真似をする人間が現れるとは、といっそ感心すらしていた悠仁の頭に、ふと疑問が浮かぶ。
いくら宿儺が近寄り難い空気を纏っているからと言って、何故あんなにも徹底して誰も告白をしなかったのだろうか。あの仏頂面に負けじとアピールする女子が大勢いてもおかしくないだろうに。それこそ、今まさにこの教室内の注目を集めてならない、彼女のように。
何か忘れているような……と頭を捻る悠仁の思考は、いやにシンと静まりかえった空気によって引き戻された。はて、先までの騒めきは何処に?
顔を上げて、悠仁は本日二度目の驚愕に襲われた。件の女子生徒が立っている扉から対角線状の教室の隅、窓際最前列(出席番号順である)に座る宿儺が、彼女を一瞥もすること無くスマホを弄っているのだ。本当に気づいていないのか、気づいていないフリをしているのか。浅く腰掛けた椅子に背を預ける色男は、どこ吹く風である。
宿儺がスマホの画面を触る、タム、という音だけが響く教室に新しい風を吹かしたのは、やはりというか、学校一の美女だった。教室に足を踏み入れ、ズカズカと進んだのは宿儺の机、その真ん前。ダメ押しのように座り込んで肘をその机についた彼女は、さらに首を傾げて言った。
「私と付き合おうよ」
……圧巻である。彼女のメンタルは鋼どころではない、ダイヤモンドだ。
もはや教室内で言葉を発する者はいない。息をしていいのかも迷ってしまう程の張り詰めた空気。何らかの達人が何らかの技をみせる寸前のごとく呼吸が潜められた空間で、嫉妬や羨望はすっかりと鳴りを潜め、誰もが「さあ虎杖弟、どうでる―― ?」と固唾を呑んで見守る中、
ペコポコ
……なんとも間抜けな電子音が鳴り響いた。教室中の視線が一気に音の発生源へと向けられる。その先は教室の教卓側の扉、つまりは悠仁だった。厳密に言えば、悠仁が手に握るスマホに届いた『遅い』という宿儺からのラインのメッセージ。
エ、ア、と慌てたのは悠仁だ。それもそうだ、三秒前まで傍観者を決め込んでいた舞台に、突然引き上げられたのだから。それなのに、主役の男が「いるなら声をかけろ、愚兄が。さっさと帰るぞ」なんて言って立ち上がり、悠仁の横を通り抜けて颯爽と廊下を歩いていくものだから。しかもその間、もう一人の主役である女をチラリとも見ないものだから。脇役の悠仁は「お、おン……」となんとも言えない返事をしつつ、その背中を追いかけることしか出来なかったのである。
そして、教室を出る寸前に差し向けられた、氷るような、ひび割れたダイヤモンドの眼光に「俺、悪くなくない?」と思いつつも、先程抱いた疑問の答えを漸く思い出したのであった。
まだ双子が小学四年生だった頃、奇しくも今と全く同じことが起きたのである。相手の女子はやはり学年で一番可愛いと言われている子だったが、宿儺もやはりその女子をガン無視して、迎えに来た悠仁に「帰るぞ」と言って教室を後にした。残された悠仁は、相手の女子の燃えるような睨みを一身に浴びながら、やはり「俺、悪くなくない?」と首を傾げたのだった。
そうして次の日にはその話は学校中に広がり、“虎杖弟に告白しても恥をかくだけ”という共通認識が生まれ、地域の小学校三つがそのまま繰り上げで進学する市立の中学校にもそれが引き継がれた結果、宿儺に直接言い寄る猛者は居なくなったのである。
しかし、流石にその噂も、様々な地域から人が集まる高校にまでは広がらなかったのだろう。つまりはそういうことである。
「お前さァ、もうちょっとなンかあるでしょ。ガン無視はさすがにないでしょ」
また俺が睨まれたんだけど。帰り道に寄ったスーパーの買い物袋をガサリと揺らしながら悠仁が言うと、宿儺はフン、と鼻を鳴らした。
「羽虫の相手をしてやるほど俺は暇じゃない。マ、お前の阿保面は見るに耐えんという感性には同意出来るがな」
「お前とおんなじ顔でしょーが! そういう意味の睨みじゃねーよ、多分! ていうかそんなこと言って、放課後やることなんか俺とスーパー寄って帰るだけじゃん!」
なおもガサガサと袋を鳴らす悠仁の横で、宿儺は実に静かに歩いている。荷物持ちは毎度ジャンケンで決めているのだが、大体は悠仁が持つことになる。何故なら、悠仁は自分が最初にパーを出しがちなことに気づいていないし、宿儺はそれに気づいているから。
そんな訳で絶賛三連敗中の悠仁が持つ袋から、宿儺がスイと何かを取り出した。みんな大好き、一口サイズのアイスが六つ入ったそれ。人に分け与えられるか否かで優しさが決まるとかいうそれを、宿儺が悠仁に分け与えたことは一度もない。なのに悠仁が食べている時は四つ持っていかれるので、絶対に宿儺の前で食べないでおこうと悠仁が決めたそれは、勿論宿儺が買ったものだった。
両手が塞がっている自分に対する当て付けだな、と察した悠仁はフイと視線を前に逸らしたが、その横顔の口元に、ピトリと冷たさが押し当てられた。戻した視線の先には、青いピックに刺さったアイス。
「え、」
くれんの、と続けようとした言葉は、アイスの侵入により撤退を余儀なくされた。口の中に広がる冷たい甘さが、ジワリと溶けてゆく。
久しぶりに食べたそれの美味しさに浸る悠仁の、唇についたチョコレートを親指で拭った宿儺が浮かべた笑みは、それなりに意地悪だった。
「嬉しいくせに」
カ、と熱くなる頬の内側で、アイスが一気に溶ける。宿儺がアイスを分けてくれるなんて今後一生ないかもしれないから、味わいたかったのに。
宿儺に心の内をすっかり見透かされてしまった悠仁は、懲りずに心の内で謝罪する。
スマン、世の女子。ダシにして。相手してやれよ、なんて言うのも、この生意気な弟の最優先事項が自分だと分かっているから、だったり、するのである。とはいえ、恐らく“面倒くさいから”が理由の大半を占めるであろうあの態度を、もう少ししっかりめに咎めるべきなのだろうけど、そこに少しでも自分がいるのなら……と絆されてしまうのだ。スマン、許せ。世の女子よ……いやでも、別に俺が悪いわけではなくないか? まあ、うん、俺にも悪いところはあるにはあるけども、しかし……
そんなことを悶々と考えつつも、何だかんだで申し訳ないなんて殆ど思っていない悠仁であったが、それを知っているのは、チョコレートがついた親指を悠仁の真っ白なカッターシャツに擦りつけた宿儺だけだった。