忘れたくない

蜜柑

 月明かりが辺りを照らす夜にだけ、静まり返った村をふたりで歩く。畑から野菜を盗んだり、塵を漁ったり、川で体や服を洗ったりする為に。身寄りの無い俺たちは、こうする他に生きる方法を知らなかった。人目につかないように足音は立てず、喋り声は静かに耳元で。それを嫌だと思ったことはない。むしろ、世界にふたりだけのようなこの時間が好きで、ずっと続けばいいのに、とさえ思っていた。そんな願いが叶う筈がないことは分かっていたけれど、風が涼しくなって、夜が次第に長くなってゆくのを感じると、いつかこのまま、なんて期待が足を弾ませて、足音を抑えるのにいつもより気を使わなければいけなかった。
 その日は、昨夜に降った雨の名残りを避けながら歩いたせいで、川までの道のりが随分と遠く感じた。川で体を洗っても、帰ってくる頃にはまた泥だらけになっているに違いない。しかし、蓄積した汚れに上書きするのと、綺麗にしたところを再び汚すのでは、それこそ雲泥の差がある。移り気な空は、次に月を見せるのがいつとも分からないし、それならばやはり、後でどうなろうとも、一度は汚れを水に流しておくべきなのである。
 またひとつ水溜まりを跨ごうと足を持ち上げた時、その中に何かが落ちているのを見つけた。
「どうしたんだ、洋平」
 水溜まりの向こう側で、浩平が呟く。ふたりの間から“何か”を拾い上げて泥を払うと、丸くて手の平よりも少し大きいほどの橙色が現れた。
「浩平。これ、なんだろう」
 今度こそ水溜まりを跨いで浩平にそれを見せると、不思議そうにしていた顔がぱっと明るくなるのが分かった。
「洋平、いいもの拾ったな。蜜柑だよ、これ」
 みかん。浩平の言葉をそのまま口の中で繰り返す。その音が頭の中をぐるりと一回りするけれど、いまいちしっくりこなかった。だって、みかんってもっと、
「これは腐ってないから、硬くて色も綺麗だな」
 手の平の橙色を、浩平の人差し指が撫ぜる。その言葉がまた頭の中をぐるりと回って、あ、と音になって外に出た。村の奴らに投げられる石にたまに混じっている、石みたいな見た目なのに柔らかくて、当たったら潰れて嫌な臭いと汁を吹き出すあれ。あの臭いにほんの少しだけ混じっていたのと同じ香りが手の平から広がっている。成程、みかんは本当は綺麗な橙色をしていて、俺がみかんだと思っていたのは、腐った蜜柑だったのか。
「浩平、この蜜柑、食べられるかな」
「多分食べられるぞ、洋平。割ってみよう」
 俺の手から離れていった蜜柑が、どこから割るのが良いかと吟味する浩平の手の平でくるくると回る。すぐに裏側で止められた蜜柑の、少しへこんだ部分に立てられた爪が半分沈むと同時に、そこから何かが飛び出して頬を濡らした。
「うわっ、」
「いたっ、」
 反射的に瞑った目を開けると、浩平はまだ瞼をぎゅっと閉じていた。どうやら目に汁が入ったらしい。大丈夫か、と掛けた声の返事に開いた目が、少し赤くなっている。そのまま涙と一緒に異物を流し出そうと見開かれた目の淵で、じわりと滲んだ涙が下睫毛を濡らして、そのまま頬を伝わずに肌に溶けてゆく。
 暫くなにも口にしていなかったからか、それがやけに美味しそうに見えて、舌で目尻を舐めとった。
「……なんだか甘い。蜜柑の汁が混じったのかな」
「気のせいだろ、きっと。ほら、洋平も顔に汁が飛んでる」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返して涙を出し切った浩平が、今度は俺の頬を舐める。
「うん、酸っぱいけど、甘くて美味しい」
「ずるいぞ、浩平。俺も早く食べたいのに」
「洋平は俺のを舐めただろ」
「そういうことじゃない」
 痺れを切らして、蜜柑に刺さったままの浩平の指を持って無理矢理左右に割らせると、足元の水溜りに汁を垂らしながら、その断面が現れた。皮よりも薄くて白っぽい橙色で、同じ形の実がふたつ、背中合わせで詰まっている。
「……鍬形くわがたの幼虫みたいな形だな、浩平」
「でも、きっとこっちの方が美味しいぞ、洋平」
 そんなことを言われると余計に早く食べたくなってしまって、空腹と好奇心と期待に急かされながら皮を剥き、ようやく実だけになった蜜柑に齧り付いた。歯で噛む度に実がぶつぶつと潰れ、甘酸っぱい汁が口の中にじわりと広がる。酸っぱいのに甘くて、実があるのに水みたいで。こんなに美味しいものを食べたのは初めてだった。驚いて浩平の方を見ると、丁度蜜柑に齧り付いているところで、さっき俺の頬に飛んだ汁を舐めたくせに、その味に驚いているのが目に見えて面白かった。
「すごく美味しいな、洋平」
「うん、浩平。今までに食べた中で一番美味しい」
「きっと皮も美味しいだろうから、後で食べよう」
「そうだな。川で洗ってから干して、明日食べよう」
 残っていた半分のもうまた半分を口に放り込んだ時、浩平が「あれ?」と声をあげた。手には幼虫の形の小さな薄橙の粒を持っている。
「ちょっとこれ持ってろ」
 咄嗟に両手で作った皿の上に次々と並べられる粒たち。半分の半分だった蜜柑は、すっかり五つの粒になった。小さな粒が集まってひとつの実になっていたのか。夢中で食べたから、気が付かなかった。
 それらを眺めてほんの数秒。きっと今、俺たちは同じことを考えている。
「なあ、浩平」
「なんだ、洋平」
「これ、まるで俺たちみたいだな」
 大きさが少し違うものもあるけれど、全く同じ形と色の粒たち。手の平にのった蜜柑と、水溜りに映った俺たちが、同じに見えた。
「でも、蜜柑はふたりどころじゃないぞ。五人……いや、もっとか。二十人くらいおんなじ兄弟がいる」
 そう言われて、頭の中に思い描いてみる。二十人は無理だろうけど、浩平以外にもたくさん兄弟がいて、みんなおんなじ。そうしたら……余計に気味悪がられるだろうか。それとも、たくさんいれば、石なんて投げられないだろうか。当たり前のように、美味しい蜜柑を食べられるだろうか。
 そんなことはいくら考えたって分かりっこないけど、でも。
「俺は浩平とふたりがいいな」
「うん、俺も洋平とふたりがいいよ」
 蜜柑を見つめていた瞳が交わって、空に浮かぶ月のように欠けてゆく。今度は、絶対に同じことを考えていると確信が持てた。
「だって、浩平を独り占めできない」
「だって、洋平を独り占めできない」
 全く同じに出た言葉が、ふたりの間に消えていく。それを追いかけるように噴き出た笑い声が水溜りを揺らした。浩平は、皿から粒をひとつずつとって口に入れながら笑い続ける。
「俺たちも食べたら酸っぱくて甘いのかな」
「でも、さっき浩平の汁を舐めたけど、甘いだけで酸っぱくなかったぞ」
 最後の一粒は、俺がとって浩平の口に放り込んだ。
「じゃあきっと、洋平が酸っぱいんだ」
 今度確かめよう、と言いなが浩平はまだ笑っている。誰が泣くもんか、そう言おうと開いた口からは笑い声だけが出ていって、結局その言葉は、胃の奥で橙色の中に呑まれていった。