双子の兄が、初めて俺の爪を黒く塗ったのは、まだ自分たちが小学校五年生の頃だったように思う。記憶は定かではない。ただ、泣いているようで笑っているような、はたまた恐れているようで安らいでいるような、なんとも言えない表情をしていたのを、ぼんやりと覚えている。その表情に不明瞭ながらも名前を付けられるようになったのはつい最近のことで、当時は「なんか変な顔だな」としか思わなかった。
「指にこれ塗らせてくんない?」
その言葉とともに眼前に突き付けられた、新品の黒いネイルポリッシュには、近所の百円ショップのロゴが印字されたテープが貼られていた。同じクラスの誰それとかいう女が、こっそり目立たない色のネイルを塗って登校していたのを見て閃いた、と宣う兄は、一応はお伺いを立てるという形をとっているものの、俺に拒否権を与える気がないことは問わずとも見てとれた。否、実際には与えられていたのだろうけど、それをするのが憚られるような、そんな『変な顔』だったのだ。本人にそのつもりはないのが余計に性質が悪く、そしてその日は金曜日で、月曜日までに落とさせれば問題ないか、と思ってしまったのが、多分、失敗だった。
「俺は何もしない、用意は全部おまえがやれ。月曜日までに落とせ。俺の漢字ドリルを三ページやれ」
黒い液体で満ちた小瓶を持つ手を押し退けて言えば、その向こう側で、兄は間抜け面を晒していた。同じ顔に情けない表情を刷かれるのは不愉快だったが、『変な顔』よりは幾分マシだった。
「マジ? いいの?」
「気が変わった、もうやらん」
「あ、うそ、ごめんて! サンキュ!」
「チッ、雑にやったら殴るからな」
「爪? 漢字ドリル?」
「両方だ、アホ」
頭を軽く小突いた俺に、兄が返事の代わりに寄越したへらりとした笑みは、やはり間抜けだった。
以来、兄は毎週、金曜日の夜に俺の爪を塗り、日曜日の夜にそれを落とすという行為を繰り返した。休日も家で過ごすことがほとんどな俺の爪を彩ったところで、家族以外の誰の目にも留まらないというのに。おかげで、残りの小学校生活の中で、漢字ドリルと算数ドリルを自分で開いた記憶がない。
そんな無意味なひと時は、中学に上がった今も繰り返されている。最初はネイルカラーだけだったのが、トップコートが増え、ベースコートが増え、専用のやすりで形を整えられ、甘皮を処理され、ハンドクリームを塗られ、果てにはどこで覚えてきたのか、ハンドマッサージまで施される始末。
そうして存外器用な兄が次々と手練手管を増やし、磨く、その一方で、ネイルカラーだけはずっと黒一色のみだった。
「なんで黒しか塗らないんだ」
今日も今日とて、飽きもせずに黙々と俺の爪を整えていく兄にそう聞いてみたのは、単なる気まぐれだった。
諸々の処理とベースコートを塗り終え、黒の小瓶を開けた所だった兄が、ついとこちらを見上げる。
いつの間にか常と化していた、ベッドの上と床という定位置のせいで、爪を弄られている間は大抵視線が合わない。いつもは同じ位置にある視線が交わらないというのは、なんとなく落ち着かなかったが、兄はそれが普通だとでもいうような顔をしていた。
その顔が、ぐ、と歪められる。寄った眉根は、これから嘘を吐くと自供しているようなものだと、どうして分からないのだろうか。我が兄ながら阿保すぎる。こいつがもう少し賢ければ、押し付ける課題も選べただろうに。
案の定、「あー、似合うから?」と疑問系で答えた兄の目は泳いでいたし、「俺に黒以外は似合わないと?」と返せば口籠った。嘘を吐くのがここまで下手くそなやつもそういない。
「……他の色、塗りたかったりする?」
加えて、茶を濁すのも下手くそだとは。和らいだ眉間の代わりに垂れた眉尻は、情けないことこの上ない。それを指摘するのは容易いが、隠したがっているものを無理やりに暴くほど仲が悪いわけではないし、全てを共有しなければ気が済まないほど仲が良いわけでもない。所詮は気まぐれ、大した興味はない、というのが一番大きかった。「誰に見せるわけでもないんだ、どうでもいい」「じゃあ平日も残しとく?」「指導室に呼び出されるのは御免だな」「だよなあ」。するすると会話を流してやれば、先立った疑問は簡単に部屋の隅に追いやられる。爪先に落とされた冷えた液体は、それらのピリオドと言えた。兄はいつも、爪を塗っている間は口を開かない。
はけが爪先の断面をなぞり、表面を中央、左右の順に滑る。左の親指から小指へ、右の親指から小指へ。
数年に渡って繰り返されたこの行為が些か異常めいているということは、曰く『人でなし』の俺でもさすがに理解していた。兄だって解っているはずだ。日頃から常識がどうのと高説を垂れ、押し付けてくるのはこの兄に他ならないのだから。
それなのに、もうずっと、ふたりして知らないふりをし続けている。
初めこそ、所詮は思いつきの延長線―― ただの遊びだと思っていた。その内すぐに飽きるだろう、宿題をする手間が省けて楽だ、と。それが思い違いだと気付いたのはいつの頃だったか。やはり記憶は定かではない。
例えばいつものように、よく回る口でどうでもいい話をラジオよろしく垂れ流していたなら。例えばいつものように、目を遣るだけで視線が交わっていたなら。そこにある『なにか』は、追いやるまでもなく部屋の隅で埃を被っていただろうに。取り繕うのですら下手くそときたら、もはや同情の余地すらあるというものだ。
そんな可哀想なまでに間抜けな兄が足先に引いた一線を徐に越えてしまった時、大人しく身を引いてやるのはしかし、決して同情心などではない。心底どうでもいいのだ、こいつが抱えているものなんて。勝手に抱えて、せいぜい苦しむなり感傷に浸るなりしていればいい。俺には関係がないことだ。関係がないのだと、一線を引いたのはこいつだ。
「寝る」
思考を断つように呟いた言葉は、ほとんど独り言だった。返事を待つことなく寝転べば「あぶなっ」と非難の声が上がったが、知ったことではない。どれだけ爪先から黒がはみ出そうと、それを整えるのは俺の仕事ではない、そういう約束だ。それを了承したのは自分のくせに、ぶつくさと文句を垂れている兄を無視して、瞼を閉じる。皮膚越しの蛍光灯の明かりが多少邪魔だが、もう慣れてしまった。もともと眠るのは得意な方だった。
視界を遮ってしまえば、世界を形作るものは極端に少なくなる。
時計の針が足を進める音。鼻を突く、つんとした匂い。爪先に触れる風呂上がりの温い手のひら。瞼の裏の暗がり。
この不毛なひと時を形作るそれらに包まれると、なんとなく、感じるものがある。この身の存在感が、希薄になってゆくような、そんな気がする。末端から腹の奥に向かって、じりじりと迫ってくるその感覚をもたらす原因なんて、ひとつしかない。
全ての始まりは、黒い指先とそれに向けられる眼差しだ。
はみださないように、斑にならないようにと、じ、と送られるそれに侵されて、まるで霊か何かのように、身体がぼやけているのではないかと錯覚する。俺を構成する物質が薄く透けていく。そうして曖昧になった身体越しの、向こう側。何もありはしないそこに、兄はなにかを――『なにか』を、見ている。それは全く俺ではない。しかし俺のかたちをしている。
疑問も遺憾も様々あるが、阿保な兄の考えることなど、どうせ分かりはしない。双子だからといって、頭に思うだけで伝わるだとか、そんなファンタジーじみたことを出来はしない。口に出してまで知りたいとも思わない。だから知らない顔をする。暗がりで線を描く明かるさの名残りを、今日も見つめる。
結局、このひと時の最初の一回に頷いてしまったことを、「失敗だった」と断じている時点で、俺だって大概だ。
多分、